郊外の犬の散歩。
首輪にリール、そして飼い主の秩序。この光景は都会の日常だ。狂犬病の注射なんてもう儀式みたいなもんだし、犬たちは行儀がいい。
飼い主もまたしかり。そんな規律のもとで、犬は自由に走れない。
だから人はドッグランへ、車を飛ばして田舎の広大な空地へと向かう。広い空、風が吹き抜ける川辺。そう、犬を放すには最高の場所だ。
田舎に行くと、放し飼いの犬を見かけることもある。
でも、意外にも多くの犬がリードで繋がれている。彼らは、犬を自由にするリスクを知っている。自由にさせれば、犬はどこかへ消えてしまうかもしれない、そう感じているのだ。
海辺に行くと、さらに違う世界が広がる。サーファーが犬をボードに乗せ、波に揺られながら戯れる光景。ここでは、自由が許されている。都会でも田舎でもない、そういう曖昧な場所が存在している。
だが、問題は「その中間地点」。
都会と田舎の狭間、そこに住む犬の飼い主たち。彼らのマナーは、一体どこへ消えてしまったのか?空き地はある。だが、ドッグランは作られない。犬を走らせる場所はたくさんあるのに、なぜかそれを活かすことができない。これが「民度」というものなのだろうか?
庭のない家で犬を飼うこと、それもまた一種の風景だ。
車は持っているが、庭はない。犬をどこで走らせる?そう、彼らは路上へと目を向ける。路面駐車をし、犬を自由にさせる。
警察に通報されることもなく、彼らの「自由」は拡張されていく。
しつけされていない犬。吠え続ける犬。そして、それを放置する飼い主。
犬たちはリードを外され、まるで自分の領土を主張するかのように走り回る。自転車の車輪に向かって突進する姿は、もはや野生そのものだ。
「注意しても無駄だ」と感じる時がある。マナーの悪い飼い主は、犬だけではなく、彼ら自身が問題だ。家の前にウンコを残される、注意しても聞く耳を持たない。警察に相談しても、現場での対応しかできない。
時代は進んでも、人間と動物の違いは、根本的には変わらないのかもしれない。
文明が進んでも、犬の散歩の風景は変わらない。犬と人、そしてその狭間にある曖昧なマナーの世界。
郊外に住む人々の「民度」を測るには、彼らの犬の散歩風景を観察するのが一番かもしれない。
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