The Remix Bird 羽のある雑談

実際に使って良かったもの、行ったところを紹介してます。

「拡大するシュルレアリスム 視覚芸術から広告、ファッションからインテリアへ」展に行ってきました

終了日の前日にいってきました。

新宿のオペラシティのアートギャラリーです。

初台駅から直結で行けます。

人生で2回目です。

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すごい昔に鉄腕アトムのポップアップストアを見に行ったのと、今ではどの街にもあるインド人が日本風に味付け改良したナンとカレーを食べに行った気がする。

 

建物は思ったより綺麗でした。

 

シュルレアリストのパリ・ガイド

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本当は周辺にある熊野神社にも立ち寄りたかったけど、1時間くらい展覧会を見たら吸収するものが多くてぐったりしたから帰りました。

 

展示物はほとんど撮影OKで、ダメなやつにだけカメラに斜線マークでした。

撮っていいのか分かりづらかったせいか、写真を撮る人が少なくて、控えめでした。

 

誰かが撮ると、恐る恐る撮る人が増えてました。

 

上野の巨大美術館だと、カメラのシャッター音のこだまで記者会見みたいなのが普通だから、逆にめづらしかった。

 

見てから数日経って、一番思い出すのは「ダリのサイン」の変化です。

初期の1930年代は普通に筆記体でフルネームの署名みたいなサイン。普通のやつ。

完全演出の演じてる天才ダリのブランド化が安定した頃は、サインがかっこよくなっていた。

ロゴとしていける記号化したDがでっかい「ダリ」のサイン。

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STUSSYのサインロゴよりずっとかっこいいんじゃないかと思う。

落書きみたいなロゴってストリートっぽい。

 

 

ダリ以外にももちろん当時のシュルレアリスムのアーティストの作品がいっぱいあった。

でも、売れる前のダリって普通に綺麗な顔してる。

 

 

他の人の作品は置いといて、

作品群を見ながらダリ(画家)とガラ(紆余曲折後にダリと結婚して、ダリの金と演出とステージを回すプロデューサー的存在でもあった人)の関係をさらっと振り返ってみた。

 

やっぱり、派手なパフォーマンスと自分自身をアート作品にする演出が有名ですよね。

ガラのパブリックイメージを調べて、一旦感じたことを書きます。

私には彼女がこう見えた。

ガラは欲望を隠さずに、才能のある男の金とステージを回す能力が高い人生総合演出家に見えた。

また時間が経てば、違うように見えるかもしれない。

つまり現実のダリやガラの人生や事実はもうどうでもよくなっている。

 

私はいま、ミューズって言葉が嫌いな時期です。

だからガラをはじめとする芸能人と付き合った女性に、ミューズなんて言葉は使いたくないです。

そんな固定化されたイメージの言葉は、外の人が勝手に言ってるだけだと思う。

実際に創作の源とされる時期もあったかもしれないけど、経年で人の価値観は変わるし、どういう意図でガラを描いてるかは誰にもわからないから、画家やアーティストなどの有名人がたまたま出会って付き合ったり結婚した女性を神格化するのが気持ち悪いです。

 

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ガラは金と恋愛を土台に、現実を回す力があるから、気弱だけど才能があるダリみたいな男が依存しやすいのかなって思ってた。

実際は本人にしかわからないから想像でしかないけど、晩年のダリの様子を調べたら、「あ、普通だ」って思った。

別にがっかりするとかではなく、それでいいと思った。

 

たぶん、ダリも風呂上がりや誰も人がいない作業中とか、ヘアメイクとかも手をかけずに、普通だと思う。

長い髭も邪魔になって耳の上にかけていたかもしれない。

 

晩年は夫婦だけど別居して、ガラもお金とステージマネジメント力をちらつかせて若い男と付き合ってたみたいだけど、ダリは放置していたと言われている。

実際はわからない。

 

ガラの家に行くにも、許可がないとダリは勝手に訪問しない契約もしてたと聞くけど、別に普通だと思った。

芸能事務所を夫婦でやってるだけだし、そういう芸能人てけっこういそう。

でもそれが世界的に商業アートとして成立してるのがすごいらしい。

 

岡本太郎さんも自分の生き方で社会に喧嘩を売るように挑戦していると本に書いてあるし、そうなるとアートで生きるアーティストって結局そこに行っちゃうのだろうか。

内田裕也さんも社会に喧嘩を売る形で芸能活動で挑戦していたらしい。

てことはそれすら、一つの型に過ぎないのかなと思った。

 

そのスタイルを悪いと思わないし、それをやって世間で認められる域に達して、しかもお金もついてくるってことをできる人も少ないだろうし、きっとすごいのだろうなと思った。

でも、なんか普通に感じてしまった。

 

 

 

あと、ダリが純情で不器用な天才として固定したイメージにする必要もないと思った。

おじさんになってからのダリも15年近く派手な不倫カップルとして一緒にいた女性がいたみたいだ。

見た目とは裏腹に性的な関係はなかったという説もあるようだけど、それも本人にしかわからない。

それに性的な関係がなかったとしても、心が強く動いてたらそれはそれですごいし、もはやそこは争点ではない気がする。

だからそれなりにお互い楽しく正直に生きていたんだなあ、よかったと勝手に思いました。

 

 

ガラが死んでから、一気にダリの創作の意欲がなくなって、しばらくして死んだと書いてあった。

それを聞くといつも、野村克也監督(野球)のことを思い出す。

世間のイメージでは怖いと言われた奥さんが亡くなった後、がっくりきてしまった姿をテレビでみた映像が浮かぶ。

息子さんと一緒に出演していて、すごくかわいいお爺さんだった。

お爺さんでも男の色気がテレビ越しでもうかがえたので、普通にモテると思った。

でもそういう問題じゃないんだろうなというのもわかる。

 

でも、外からは恐妻家に見える愛妻家の旦那さんが奥さんに先立たれて意気消沈するエピソードも結構聞くから、それはそれで普通だと思った。

 

私の親戚の男性たちは、奥さんが亡くなってその時は泣いたり、しばらく静かにしてたけど、喪に服したら以前よりイキイキして遊びまくってた。

これもそんなにめずらしくない話だと思う。

 

どっちもあるから、その真ん中の人たちもいっぱいいると思う。

だから別にいいやって思った。

 

ただ付き合って影響を与え合っただけ

 

だからガラに限らず、ピカソでも誰でも、有名な芸術家と付き合った女性に、すぐミューズって言う感じが嫌いです。

たまたま天才とか、才能を現実化した男と出会って、影響を与えたのかもしれない。

支えたり、刺激を与えたり、現実を回したりしたこと自体はすごいと思う。

でも、それを最終的に作品にしているのは結局画家だし、一般人だって、恋人や夫婦や友人同士でお互いに影響を受け合っている。

それを有名人だからといって、あとから大げさに意味づけしすぎなくてもいいんじゃないかと思う。

 

後付けの意味はどうでもいい

 

つまり私は、あとから意味をつけて、世紀の大恋愛とか、純愛とか、悪女とか、ミューズとか、そういうわかりやすい性格分析をくっつける美術批評にげんなりしているのだと思う。

 

もちろん、そうやって語った方が作品も人生もドラマチックに見える。

 

でも、その演出に乗せられて、天才と女の物語にうっとりしてしまう大衆の感じが、いまの私は少し気持ち悪い。

ただ、それは断罪ではない。

 

全てを見世物にする覚悟とか

感想なんて、その時の体調や時代、経験による視点の変化などでいくらでも変わるし、常に流動しているのが普通だと思う。

そして同時に、その演出に乗せられる大衆まで巻き込んで、幻想というアートを収益化して、自分という虚像をアートに無理やり押し上げた覚悟はすごいと思う。

 

生活をそのまま仕事に持ち込むこと。

恋愛も夫婦関係も老いも依存も欲望も、全部まとめて見世物にして、作品や商売にしていくこと。

そこまでやって世界的に成立させたのは、やっぱり普通ではない。

でも、人間関係そのものは、思ったより普通にも見えた。

 

演出に気が付かないでバカになれるか

演出だとわかったうえで乗っかるのは、きっと楽しいのだと思う。

気がつかないふりをするというか、いい意味でバカになって楽しむというか。

作られた物語だと知っていても、一時的にそこへ入って、天才と女の物語にうっとりする楽しさはあるのだと思う。

でも、いろいろ見ようとしてしまう人や、見ようとしなくても違和感を拾ってしまう人は、わからないふりができない。

演出の継ぎ目が見えてしまう。

そして一度そこが見えると、私はもう、きれいな物語だけをそのまま飲み込むことができない。

 

とにかく、2026年の私にとって美術展に行くことは、画家や作品に会いに行くことではなく、現在の自分を客観する行為になっている、ということがよくわかった。